訪れて

2013/1/22に執り行われました、

大島渚 監督の葬儀において。

会葬礼状には、

「機会がございましたら訪れて頂ければ幸いです」

と、 ご自身のお墓の場所を明示されていたそうです。

葬儀、お墓、死後感は人それぞれではありますが、
この大島渚さんの思いも、

きっと多くの方が抱くであろう感覚のひとつだと思います。
自分がお墓で眠っていて、

かわいい子孫や友人が会いに来てくれたら、それはそれは嬉しいですよね。
死後も魂はそこにあり、対話できるという観念ですね。

一方、「千の風になって」のように、

「わたしはそこにいません」という表現も間違いなく支持されるものです。
どちらが正しいということも、

確証を持って言えることではありません。

ただし「千の風になって」の歌は、
旅立つ人”故人”側からの一本通行のメッセージであることを踏まえねばなりません。

「どこにいても見守っているよ」というメッセージは、事実そうであれば大変素敵だとわたしも思うのですが、

「お墓も仏壇もいらない」と解釈しても、実際は旅立っていった方にその真意を確かめる術はないのです。

お葬儀にしても、お墓やお仏壇にしても、生きている私たちのためにあるものだとすれば、どこまでやれば納得するかは、やはり生きている私たちが決めるべきことだと思います。
お墓に話を戻しますと、「遺骨」というものを、私たち日本人が先祖供養としてどのように扱ってきたのかを紐解くと、

日本人として より 自然なかたちが感じられるのではないかと思います。

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